レビ記4章
4:1 主はモーセにこう告げられた。
4:2 「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──
4:3 油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。
人が罪を犯した場合の捧げ物について規定しています。その罪は、主が命じたことから逸れた場合で、気付かずに罪を犯した場合です。罪を犯した祭司は、その罪のために若い雄牛を罪の清めの捧げ物として捧げます。
祭司については、油注がれた祭司と記されています。彼は、祭司としての主イエス様を現す者としてあります。ここでは、民に罪禍をもたらしたことが問題とされています。祭司の個人的な罪のことではなく、彼の務めの上でのその役割に相応しくない罪のことです。彼は、民の霊的指導者であり、教えをなす者です。また、模範者です。特に、教えや指導において誤れば、その教えや指導を受ける民は、罪を犯すことになります。そのように、祭司の罪が民に罪禍をもたらすのです。
この罪は、教えに関わる罪です。それによって民が神の掟から離れて罪を犯すような場合です。祭司が個人的に責任を負う祭司の個人的な罪ではありません。
牛は、僕としての主イエス様を表しています。僕として服従することが求められている。主イエス様に関して、しもべとして従われるときに、罪を犯すことがありませんでした。肉を持たれましたが、肉にはよらず完全な者とされたのです。
・「罪に陥って」→罪を犯す。
・「民が責めを覚えた場合には」→民に罪過をもたらすなら。祭司の罪を認定する基準が、民が責めを覚えた場合というのは、奇妙です。祭司が犯した罪について、他人である民が責めを覚えることはあり得ません。また、霊的に高い祭司が犯した罪を民が認定することは難しいことです。しかも、民が自分で責めを覚えたかどうかが判断基準であれば、非常に曖昧です。
4:4 彼はその雄牛を会見の天幕の入り口、主の前に連れて行き、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。
手を置くのは、雄牛が彼の代わりに受け入れられ、罪が赦されるためです。その雄牛は、屠られました。
4:5 その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
祭司は、民の前に神の聖さを現す者として立てられています。彼は、神の聖さを身をもつて現されなければならないのです。その祭司が罪を犯したのですから、神の聖さの前に罪を贖う必要があります。
4:6 その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。
その血を、会見の天幕に持って入りました。そして、聖所の垂れ幕の前に振りまかれました。その幕は、聖所と至聖所の仕切りであり、神の聖を表しています。その血は、その聖を現すことができなかった祭司の罪を贖うものです。彼は、教えにおいて誤り神の聖を表すことができなかったからです。七回振りまかれることで、それが贖うのに十分なものであることを表しています。
4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。
香の祭壇は、純金の角を持っていました。それは、神の権威を表していて、神聖さの要求を表しています。香は、主イエス様が放つ香りを表していて、この方が神の栄光を現したこと表しています。祭司は、その教えによって、神の聖を現さなければならなかったのです。しかし、彼は、教えにおいて誤り、神の聖を現すことができませでした。その血は、聖なることを要求する神の権威を宥めることができるのです。四隅に塗られることで、あらゆる方面において、宥めることが表されています。
そして、雄牛の血の残り全ては、全焼のいけにえの祭壇の土台に注がれました。それは、全焼の捧げ物や「交わり→完全さの捧げ物」の血が祭壇に振りかけられたのと異なり、土台に注がれました。それは、主イエス様の血の比喩で、振り掛けられる場合は、肉の命を捨て、全てを父に捧げられたことを表し、その血の尊さが披露されるためです。土台に注がれたことは、罪の代価として命を捨てたことを表しています。
4:8 そして、罪のきよめのささげ物であるその雄牛の脂肪をすべて取り除く。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、
4:9 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を取り除く。
その雄牛は、主イエス様の比喩です。しもべとして、神の御心のうちを歩まれたことを表しています。そして、脂肪は、聖霊の比喩です。内臓を覆う脂肪は、人の内面を表しています。それは、霊であり、たましい、知性、良心などを含みます。
二つの腎臓は、たましいの比喩で、神の言葉に従う座です。二つで、証しを表していて、主イエス様は、神の言葉に従うことを身をもって現されたことを表してます。それは、腰のあたりについている脂肪と関連付けられていて行いを表しています。肝臓は、御心に従って歩む時に経験する命を表していて、「小葉→脂肪」は、聖霊によって歩むことで、その命のうちを歩まれたことを表してます。
4:10 これは交わりのいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のささげ物の祭壇の上で焼いて煙にする。
その脂肪と腎臓は、神の前に香ばしい香りでした。このように、一切肉にはよらず、神の御心のうちを歩まれて完全であられた主イエス様が表れさています。そのような方が父に受け入れられているので、祭司のようにその務めのゆえに民に罪禍をもたらす祭司の罪が赦されるのです。
4:11 その雄牛の皮とそのすべての肉、頭と足の部分、さらに内臓と汚物、
4:12 すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。
その雄牛のすべての肉、頭、足、内臓と汚物は、宿営の外の灰捨て場で火に焼かれました。これは、罪の贖いのためにイエス様が捨てられたことを表しています。
4:13 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、主がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、
4:14 自らの罪が明らかになったときに、その集会の人々は罪のきよめのささげ物として若い雄牛を献げ、それを会見の天幕の前に連れて行く。
次に、イスラエル会衆の全てが迷い出て、それを罪と認識しないで主の命令に背いて事を行なった場合で、後に罪禍を負った場合、民の罪が明らかになったときは、若い雄牛を捧げます。これは、罪の捧げ物です。
これは、民全体が神の掟から離れるという教えに関する罪です。
・「迷い出て」→何かに魅了されて、神の掟から離れること。
4:15 会衆の長老たちは主の前でその雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。
会衆の代表者として、長老が雄牛に手を置きます。彼らは、霊的経験に長じたものとして、そのような誤りを回避する責任があります。しかし、彼らも罪を犯しました。
4:16 油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入る。
イスラエルの民全体は、神の聖さを証しする民です。その民全体が神の言葉に背いたのですから、神の聖さを損なうことになります。それで、贖いをなす血は、神の聖さを表す、神の前に贖われる必要があります。
4:17 祭司は指を血に浸し、主の前で、垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。
垂れ幕は、聖所と至聖所の仕切りであり、神の聖さを表しています。その前に血を振りまくことで、血による贖いをなします。七は、満たす意味での完全さを表し、その血の効力が十分なものであることを表しています。
4:18 そして、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の四隅の角に塗る。また、その血はすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。
また、純金の香壇の四隅の角に塗ります。その角は、神の権威を表していて、独り子の神の栄光を現すことを求める神の要求を表しています。そこに捧げられる香は、イエス様が神の神子としての栄光を豊かに現され、神を満たしたことを表しています。その方の血がその聖さ、神聖さの要求を満たすものになります。
4:19 脂肪はすべてその雄牛から取り、祭壇の上で焼いて煙にする。
4:20 罪のきよめのささげ物の雄牛に対してしたように、この雄牛に対して行う。こうして祭司は彼らのために宥めを行う。そして彼らは赦される。
そして、脂肪は、取り出され、祭壇の上で焼かれて煙にされ、神に捧げられます。それが神の食物であり、神を満たします。その脂肪は、神の御心のうちを聖霊によって歩み、神と一つになって歩まれたイエス様の栄光を表しています。そのような歩みは、本来、神の選民としてのイスラエルに求められていたことです。しかし、彼らは、神の御心に背いたのです。代わりにイエス様が完全にそれを満たされたことを表す捧げ物が捧げられることで、父は、満足されます。
その血は、罪の贖いのための代価として命を捨てられたことを表しています。
4:21 その雄牛は宿営の外に運び出し、先の雄牛を焼いた場合と同様に、それを焼く。これは集会のための罪のきよめのささげ物である。
そして、この雄牛も、宿営の外で焼かれました。肉は、全て灰捨て場に持っていかれることで、罪の贖いのために捨てられたことを表しています。
4:22 族長が罪に陥って、その神、主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも、気づかずに行ったが、後になって責めを覚える場合、
4:23 または、自分が陥っている罪が知らされた場合には、ささげ物として傷のない雄やぎを連れて来る。
族長が気付かずに罪を犯して、罪禍に定められた場合、あるいは、自分の犯した罪が知らされた場合、罪のための捧げ物は、雄山羊です。族長として取り上げられていることは、かしらとして罪を犯した場合です。
雄山羊は、主イエス様の比喩になっています。それは、王としての主イエス様です。族長は、かしらで、王としての主イエス様と同じであることが求められています。
なお、これは、次の民衆の一人と対比されています。
4:24 そして、そのやぎの頭に手を置き、全焼のささげ物を屠る場所で、主の前でそれを屠る。これは罪のきよめのささげ物である。
山羊の頭に手を置くことで、彼の代わりに受け入れられるためです。主イエス様は、王として完全でした。その方のゆえに、受け入れられるのです。
4:25 祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。残りの血は全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。
祭壇は、神の御心を行うことでの聖さを表しています。その角は、神の権威を表していて、その聖さを要求しています。その角に血を塗ることで、捧げ物によって表される主イエス様がその要求を満たした方であることが表されています。
4:26 また、交わりのいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪はすべて祭壇の上で焼いて煙にする。こうして祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。
そして、脂肪は、「交わり→完全さ」のいけにえと同様に、祭壇の上で煙にされます。祭司は、彼のために宥めをします。すなわち、その脂肪が神様を満たすので、宥めがされるのです。その脂肪は、神様の御心を聖霊によってことごとく行われたことを表しています。その方は、かしらであって、全ての名にまさる名を受けられた方です。その方は、私たちが到達すべき方なのです。
エペソ
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
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・「罪を除いて宥めを行う」→宥める。罪を取り除くは、補足。罪を取り除くという意味はない。
4:27 民衆の一人が、主がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、
4:28 または、自分が陥っていた罪が知らされた場合には、その人が陥っていた罪のために、ささげ物として傷のない雌やぎを連れて来る。
民衆の一人が気付かずに罪を犯し、後になって咎を負った場合、また、他からの指摘で、その罪が明らかになった場合です。その人が犯した罪のために、雌山羊を捧げます。
民衆の一人は、族長に対比されています。かしらに対して、従う者の立場を表しています。その捧げ物は、雌山羊です。これは、雄山羊に対比されています。それは、かしらとしての主イエス様に対して、従う者としての信者の比喩になっています。これは、キリストと教会の関係を表しています。教会に属する一人の信者の比喩です。
4:29 そして、その罪のきよめのささげ物の頭に手を置き、全焼のささげ物の場所で罪のきよめのささげ物を屠る。
それは、全焼の捧げ物が屠られる場所で屠られます。その捧げ物が神様によって受け入れられるためです。
4:30 祭司はその血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す。
全焼の捧げ物の祭壇は、神の御心を行なって聖であることが要求されています。角は、神の権威です。聖なることを要求しています。四隅は、あらゆる点において聖であることが求められていることを表しています。
その角に血が塗られることは、その血が神様の要求を満たすことを表しています。そのことは、次節の捧げられる脂肪によって表されているように、聖霊によって神の御心を行われたことでその要求を満たしたのです。神様は、その捧げられた捧げ物の煙で満足されました。
血は、土台に注がれました。罪の贖いのために命を捨てたことを表してます。
4:31 交わりのいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪はすべて取り除く。祭司は主への芳ばしい香りとして、それを祭壇の上で焼いて煙にする。こうして祭司はその人のために宥めを行う。そして彼は赦される。
その脂肪は、芳ばしい香りとして捧げられました。それが、神様を満たしたのです。その脂肪は、聖霊によって御心を行い、命のうちを歩まれたことの比喩です。
4:32 罪のきよめのささげ物のために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来る。
民衆が罪を犯した場合、子羊を連れて来ることもできました。子羊は、独り子の御子を表しています。民衆と言われている人は、イスラエルの中の一人ひとりを指しています。その一人ひとりに求められていることは、独り子の御子と同じ者になることです。
4:33 その罪のきよめのささげ物の頭の上に手を置き、全焼のささげ物を屠る場所で、罪のきよめのささげ物としてそれを屠る。
その捧げ物の上に手を置きます。彼の代わりに受け入れられるためです。全焼の捧げ物を屠る場所で屠ることも、そのことを表しています。
その子羊が表しているのは、独り子の御子であり、イエス様は、人となられてそのことを栄光として現されました。
4:34 祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す。
血は、祭壇の四隅の角に塗られました。祭壇は、神の評価を表しています。その評価項目は、その寸法の比喩と、青銅の比喩から、聖であることを要求しています。角は、神の権威を表していて、神がそれを求めておられ、火をもって評価されるのです。角に血が塗られることで、神のその要求を満たしたことを示すことで宥めを行います。子羊が表すイエス様は、あらゆる方面において、神の御心を行い聖なることを現されました。そのようにして、独り子の御子の栄光を現されたのです。
土台に流された血は、罪の贖いのために命を捨てたこと表しています。
4:35 また、交わりのいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪はすべて取り除く。祭司はそれを祭壇の上で、主への食物のささげ物の上に載せて、焼いて煙にする。こうして祭司は彼のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。
「交わりのいけにえ→完全さのいけにえ」と同様に脂肪が祭壇上で焼かれました。脂肪は、聖霊によってすべてのことが行われ、それが父と一つである命を表しています。聖霊によって御心を完全に行い、聖なることを現し、独り子の御子の栄光を現されたのです。